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07月01日 ~ 07月31日

7月31日 イグナチオ:子供の名前(男の子)

7月31日
  聖イグナチオ(ロヨラ)司祭(St. Ignatius of Loyola)

イグナチオは、スペインのバスク地方の貴族ロヨラ家に生まれ、幼いころから騎士道精神を身に付け、名誉を求めることを価値としていた。1521年、戦場で負傷し、病床にあったイグナチオは、キリスト伝や聖人伝を読んで感銘を受けた。そしてすべてを捨ててキリストに従う決心をし、マンレサに退いて、祈りと苦行に専心した。このときの霊的体験が、有名な著書「霊操」を生みだした。それから、ローマとエルサレムに行き、ヨーロッパに戻りパリ大学で勉強をした。学友の中から6人の同志を集め、パリのモンマルトル聖堂で、「より大いなる神の栄光のために」、また「すべての人のために」働くことを誓って、「イエズス会」を創立した(1540年に正式に認可)。そのなかには、日本の最初の宣教師であるフランシスコ・ザビエルもいた。
 現在会員は、世界各地で、教育など多くの分野で活躍している。日本では、東京の上智大学をはじめ、鎌倉市、神戸市、広島市、福岡市などでの教育事業や、黙想指導、教会司牧、社会正義など、社会の中で人々の必要のために働いている。


投稿者 nazuke : 13:15 | コメント (0)

7月30日 ペトロ:子供の名前(男の子)

7月30日
 聖ペトロ・クリソロゴ司教教会博士(St. Peter Chrysologus)

 聖ペトロ・クリソロゴ(金の言葉の意味)は、380年ごろ、イタリアのラヴェンナ(イモラ誕生ともいわれる)に生まれた。424年〜431年の間にラベンナの司教に選ばれた。当時、この古い都は帝政時代の栄光期にあったが、その中で、ペトロ司教は牧者としての任務を忠実に果たし、また、優れた政治家でもあった。福音に基づいて生活へと導く彼の説教は有名で、その多くが今日まで伝わっている。そこには、同時代のアウグスチヌスのような雄弁も、レオ教皇のような神学もみられないが、彼の説得力と実生活に即した教えがあり、また飾り気がなく分かりやすい教えで、ラヴェンナの市民は高く評価していた。ペトロ司教は日ごろからこう言っていた。「民には民の言葉で話さなければならない。」
 ラヴェンナの年代史によると、ペトロ司教は451年から485年の間の7月31日に亡くなった。

投稿者 nazuke : 13:13 | コメント (0)

7月29日 マルタ:子供の名前(女の子)

7月29日
  聖マルタ(St. Martha)
イエスの時代に、エルサレムの近くのベタニアに、兄弟であるマリアとラザロとともに住んでいた。彼女は、敬虔な生活を送っていた。聖書に「イエスはマルタとマリアと、ラザロを愛していた」(ヨハネ11.5)とあり、ラザロが死んだとき、マルタはイエスのもとに使いを送って、イエスへの信仰と信頼を表し、ラザロを生き返らせてもらった。その後もマルタはマリアとともにイエスに従った。

投稿者 nazuke : 12:07 | コメント (0)

7月28日 ナザリオ:子供の名前(男の子)

7月28日
  聖ナザリオと聖チェルソ殉教者(St.Nazarius & Celsus)

キリスト教迫害が始まったころ、ナザリオとその妻は自らの危険を顧みず、熱心に宣教をしていたが、仲間の計らいによってローマから出ることができた。ゴールに逃れたときに、そこでチェルソという子どもの世話を頼まれた。ナザリオは、チェルソに洗礼を授け、その後ドイツで宣教をした。そしてミラノで捕えられ、処刑された。
 4世紀にミラノの司教聖アンブロジオは、彼ら殉教者の遺体を発見し、それをミラノの教会に移した。のちにこの教会はナザリウスの教会と呼ばれるようなった。

投稿者 nazuke : 12:04 | コメント (0)

7月27日 パンタレオン:子供の名前(男の子)

7月27日
  聖パンタレオン(St.Pantaleon)

 パンタレオンは、ニコメディアのローマ貴族の家に生まれた。父の意思によって医学を学び、またある司祭との出会いからキリスト教について学び、洗礼を受けた。医者となってからは、人々からも慕われ、評判が高まり、時の皇帝の宮廷づき医師となった。そして父の財産を継ぐと、それを貧しい人々や病人、孤児などに与えた。
 ニコメディアでキリスト教の迫害が始まると、彼の名声をねたんでいた医師たちは、彼がキリスト信者であると訴えた。そのため、彼は残酷な拷問を受け、処刑された。パンタレオンは、その名(憐れみに満ちるという意)が示すとおり、医学と愛の行いによって多くの人々を信仰に導いた。医師の守護の聖人とされている。

投稿者 nazuke : 12:02 | コメント (0)

7月26日 ヨアキム:子供の名前(男の子)

7月26日
  聖マリアの両親 聖ヨアキムと聖アンナ(Sts. Joachim and Ann)

ヨアキムとアンナは、聖母マリアの両親と伝えられ、その生涯は、外典「ヤコブ原福音書」(2世紀)に述べられている。それによると、ヨアキムはナザレトで生まれ、アンナと結婚したが、長い間子どもに恵まれず、子どもが授かるように神に祈りをささげていた。アンナは40歳のころにマリアを産み、マリアを女性として申し分なく教育した。ヨアキムとアンナはイエスが誕生したときまで生きていたといわれる。アンナは、ブルターニュの守護の聖人とされている。レオナルド・ダ・ヴィンチによるアンナの聖画はルーブル美術館に保存されている。

投稿者 nazuke : 12:01 | コメント (0)

7月25日 ヤコブ:子供の名前(男の子)

7月25日
  聖大ヤコブ使徒イエスの12使徒のひとりであるヤコブは、ガリラヤの漁師の家に生まれた。福音史家ヨハネとは兄弟である。彼が、大ヤコブと呼ばれるのは、使徒の中で最初の殉教者であり、イエスのいとこにあたる小ヤコブと区別するためである。彼は、パレスチナの王ヘロデ・アグリッパのキリスト教迫害の際に捕えられ、斬首された。
 ヤコブは、スペインの守護の使徒と呼ばれているが、それは、遺体がスペインに運ばれたからだと伝えられている。数世紀にわたる迫害と民族移動によって不明となっていた墓は、813年に発見された。その場所は「コンポステラ」(星が現われて、聖人の墓の場所を示したという伝説による)と名づけられ、最も重要な巡礼地となリ、現在に至っている。

投稿者 nazuke : 11:57 | コメント (0)

7月24日 シャーベル:子供の名前(男の子)

7月24日
  聖シャーベル・マクループ司祭(St. Sharbel Makhlouf)

シャーベル(幼名ヨセフ)は、1828年5月8日にレバノンに生まれた。
 彼は、3歳のときに父を失い、叔父にあずけられた。幼いころから隠遁(いんとん)生活の召命を感じ、14歳になると村はずれの洞くつに隠遁し、祈りに専念した。今日この場所は「聖なる洞くつ」と呼ばれている。当時は隠修士の生活には23歳にならなければ入ることができなかった。そのため、レバノンのマロニータ修道会の修練院に入ったのは、彼が23歳になった1851年であった。ここで、シャーベルは殉教者サルベルの名をもらい、1859年に司祭に叙階された。
 シャーベルは、1875年には隠遁生活を始める許可が与えられ、祈りと犠牲をもって、人々が神にたちかえるように祈り続けた。
 1898年12月16日、ミサの最中に発作が起こり、8日間の苦しみの後24日に亡くなった。数カ月後、彼の墓が開かれたが、その遺体は腐敗していなかった。さらに1950年と1952年にも、彼の墓は開かれたが、彼の体は、生きているようだった。そしてシャーベルは、短時間に、600の奇跡をおこした。
 1965年12月5日、シャーベルはパウロ6世によって、第二バチカン公会議の教父たち全員の前で列福された。そして、パウロ6世は、彼を1977年10月9日、列聖した。

投稿者 nazuke : 11:55 | コメント (0)

7月23日 ビルジッタ:子供の名前(女の子)

7月23日
  聖ビルジッタ修道女(St. Bridget)

 ビルジッタは、スウェーデンの名門貴族の家に生まれ、敬虔に育てられた。結婚して、8人の子供を育て、その後国王マグヌス2世の皇后の女官になり、国王夫妻に良い影響を与えた。宮廷を去った後、シトー会の修道院に入り厳しい生活を送った。彼女は、幼いときから啓示を受けていたが、ますますはっきりしたものとなり、その体験を書いた著書「啓示」は、のちに多大なる影響を与えた。1346年に国王より土地を与えられ、ヴァズテナに修道会を創立した。1360年にローマに移り、不幸な人々を助け、施設を設けたり、また教会の堕落を指摘するなど改革にも力を尽くした。スウェーデンの保護の聖人とされている。

投稿者 nazuke : 11:54 | コメント (0)

7月22日 マリア:子供の名前(女の子)

7月22日
  聖マリア(マグダラ)(St. Mary Magdalene)

エルサレムの裕福な家に生まれ、幼くして両親を失い、兄のラザロと姉のマルタといっしょに暮らしていたといわれる。自由奔放な生活をし、やがて7つの悪霊につかれて苦しみ、人々から「罪の女」というレッテルをつけられて疎まれるようになった。そのときに、イエスと出会い、悪霊からも解放され、真の愛を知って回心し、徹底して信仰の道を歩んだ。復活したイエスが最初に現われたのは、このマリアにであり、彼女が他の弟子たちにイエスの復活を告げた。その後は、使徒たちの宣教活動を助けて、兄ラザロとともに南フランスに流され、隠遁生活のうちに生涯を送ったといわれる。

投稿者 nazuke : 11:52 | コメント (0)

7月21日 ラウレンチオ:子供の名前(男の子)

7月21日
  聖ラウレンチオ(プリンディジ)司祭教会博士(St. Lawrence of Brindis)

ラウレンチオは、イタリアのプリンディジで生まれた。16歳のときにカプチン会の修道院に入り、パドアで神学を学び司祭となった。当時教会は、宗教改革で揺れ動いていた。教会を立て直すために、ドイツやボヘミアなどで説教し、バイエルン公やマキシミリアノ1世とともにカトリック政策を推進し、人々の信仰を鼓舞した。また彼は、聖書解釈者としても有名であり、多くの著者を残した。

投稿者 nazuke : 11:49 | コメント (0)

7月20日 マルガリタ:子供の名前(女の子)

7月20日
  聖マルガリタおとめ殉教者(St.Margaret of Antioch)

 マルガリタは、小アジアのアンチオキアで生まれた。父は異教徒であり、彼女がキリスト教徒になったことを知って激怒し、娘をローマの知事に告発した。知事は、マルガリタの美しさにひかれ、妻にしようと思い、棄教を迫った。しかし彼女は拒絶し、最後まで信仰を守ったため処刑された。
 彼女については多くの伝説があり、「ペラギア伝説」として知られている。それによると、牢獄の中で恐ろしい竜に襲われ、飲み込まれそうになったが、十字架で竜の首をひっかいて、危機を逃れることがきた。イタリアでは、聖マリーナとして親しまれ、聖画は女性の羊飼いの姿で、竜とともに描かれている。

投稿者 nazuke : 11:47 | コメント (0)

7月19日 ヴィンセンシオ:子供の名前(男の子)

7月19日
  聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ

ヴィンセンシオは、フランスのランキンヌの貧しい農家生まれ、幼いときから牧童として一家を手伝っていた。彼は、賢い少年であり、その才能が認められて、神学を勉強する機会を与えられた。そして1600年に司祭となったが、苦しい事件に遭い、信仰について疑問をいだくようになった。しかしパリで大きな回心をし、貧しい人々のために生涯をささげることを決心した。そして各地で主任司祭をしながら、女性および男性の慈善会を建てた。1625年に、地方で司牧にあたる司祭の会「ラザリスト宣教会」を創立し、1633年にルイーズ・ド・マリヤックとともに「愛徳修道女会」を創立した。1833年にオザナムによって創立された「ヴィンセンシオ・ア・パウロ会」も彼の精神を汲んでいる。

投稿者 nazuke : 11:45 | コメント (0)

7月18日 パンボ:子供の名前(男の子)

7月18日
  聖パンボ修道士(St.Pambo)

彼は、砂漠の教父たちの中でも最も偉大な教師の1人であった。あるとき、詩編39の第1節「わたしの道を守ろう。舌で過ちを犯さぬように」という言葉を聞いて以来、沈黙が彼の最も大きな徳となった。総司教から、感動すべきことをいうようにと頼まれたとき、「総司教がわたしの沈黙に感動されなければ、わたしの演説にも感動しないでしょう」と言った。また、彼は師父から習った「自分の正当さを信頼してはいけない。過ぎ去ったことを悲しんではならない」ということを心に納め実践した。砂漠の教父たちの生活実践と教えは、修道院制度の確立と発展の基礎を築いた。

投稿者 nazuke : 11:43 | コメント (0)

7月17日 アレクシオ:子供の名前(男の子)

7月17日
 聖アレクシオ(St.Alexius)


アレクシオは、イタリアのローマの裕福な貴族の家に生まれ、何不自由なく育った。結婚も決まっていたが、神に生涯をささげたいとの思いから、式の当日に姿を消し、エデッサに行った。そこでは、自分の身分を明かさず、物乞いをしながら苦行の生活を送った。言い伝えによれば、アレクシオは17年後に両親の家に戻り、息子とは気づかれないまま、使用人として過ごしたという。彼が亡くなったとき、貧しい衣服の中から彼の本名と経歴が記された1枚の紙が見つかり、荘厳な葬儀が行われ、人々から「神の人」と賛えられたといわれる。

投稿者 nazuke : 11:41 | コメント (0)

7月16日 ポステル:子供の名前(女の子)

7月16日
   聖マリア・マグダレナ・ポステル修道女(St.Marie Madeline Postel)

投稿者 nazuke : 11:39 | コメント (0)

7月16日 カルメル:子供の名前(地名)

7月16日
  カルメル山の聖母(Our Lady of Mount Carmel)
 
カルメル山は、イスラエル北部の地中海沿岸を南東に走る、長さ24km、最高峰524mの丘陵である。その美しさは聖書の中でしばしば語られ、神の祝福の象徴として用いられるようになった。(雅歌7.6、イザヤ35.2、エレミヤ50.19、列王上18.17-40、列王下2.25 参照)
 十字軍の時代、キリスト教徒の隠遁者がこの山の洞窟で生活するようになった。13世紀に入ると、彼らは集まって一つの修道家族を作り、エルサレムの総大司教アルベルトが与えた会則を受け入れて、カルメル会が発足した。
 カルメル山からはガリラヤの平原を見渡すことができ、マリアが生活したガリラヤの近くであることから、カルメル会は初めから観想者であるマリアの保護のもとに自分たちを置いた。16世紀の偉大なる2人の教会博士、カルメル会の改革者アビラの聖テレジアと十字架の聖ヨハネは、カルメル山登攀(とうはん)をボナベントゥラがいう「神に向かう道」のシンボルとした。私たちは、聖母マリアの祈りに支えられて、神秘の山、キリストに近づくことができるのである。

投稿者 nazuke : 11:38 | コメント (0)

7月15日 ボナベントゥラ:子供の名前(男の子)

7月15日
  聖ボナベントゥラ司教教会博士(St. Bonaventure)

ボナべントゥラは、イタリアの貴族の家に生まれた。幼いころ、重病にかかった彼を、両親はアシジの聖フランシスコのもとに連れて行き、もし病気が治ったならば修道会にささげるという願をかけた。彼は全快し、25歳のときにフランシスコ会に入った。パリで神学を学んだのち司祭となり、多くの書物を著わした。35歳の若さで会の総長に、53歳でアルバノの枢機卿に任命された。彼は学識が高く、地位も高かったが、とても謙遜であり、多くの人々から尊敬された。友人トマス・アクィナスと並んで「スコラ学派の神学者」と称され、「セラフィム的博士」とも呼ばれる。

投稿者 nazuke : 11:36 | コメント (0)

7月14日 カミロ:子供の名前(男の子)

7月14日
  聖カミロ(レリス)司祭(St.Camillus of Lellis)

カミロは、イタリアのナポリの貴族の家に生まれた。18歳のとき軍隊生活に入り、そこで、足に傷を受け、さらに賭博によって全財産を失った。足の傷は生涯彼を悩ますこととなる。25歳になって回心し、カプチン会の修道院に入ったが、傷がひどくなったので会をやめた。その後、ローマの病院に行き、病人を看護する決心をした。彼の回心に影響を与えたフィリポ・ネリのすすめを受け、神学を学び、司祭となって、2人の同志とともに「病人のしもべたち」という修道会を創立した。「病人のよいしもべは、病院で死ぬ」と彼がいっていたように、生涯を病人のためにささげた。彼の創立した会は、「聖カミロ修道会」として全世界に広まった。彼は病院・病人の保護者と呼ばれている。

投稿者 nazuke : 11:34 | コメント (0)

7月13日 ハインリッヒ:子供の名前(男の子)

7月13日
  聖ハインリッヒ(St. Henry)

 ハインリッヒ2世は、ドイツのレーゲンスブルクに、バイエルン侯ハインリッヒの子として生まれ、幼少のころから、王侯の義務、権限、神への畏敬などを学んだ。1002年に、従弟のドイツ皇帝オットー3世のあとを継いで皇帝となってからは、教会の改革に力を注ぎ、聖堂や修道院をドイツのあちこちに建てた。特にバンベルクに建てた司教座は、教育・文化・宣教の中心となり、国家は繁栄した。彼は、理想的なキリスト教の君主として知られている。

投稿者 nazuke : 11:33 | コメント (0)

7月12日 グアルベルト:子供の名前(男の子)

7月12日
   聖ヨハネ・グアルベルト(Sts. John Gualbert)

ヨハネは、イタリアのフィレンツェの貴族の家に生まれ、何不自由なく育った。ある日、貴族同士のいざこざで兄が殺され、ヨハネは復讐を決意してその機会を狙っていた。とうとうチャンスが訪れたが、相手の懇願に胸を打たれ、赦したのであった。そして、彼は生涯を神にささげようと、ドミニコ会の修道院に入り、修行に専心した。より簡素な生活を求め、聖ロムアルドが創立したカマルドリ会でしばらく生活したのち、ヴァンブローサの山奥にこもって修行した。彼の徳を慕って集まって来る人々のために、1038年に修道院を創立。聖ベネディクトの会則に基づいた生活を送り、貧しい人々や病人の世話をし、また訪れる客を快くもてなした。

投稿者 nazuke : 11:30 | コメント (0)

7月11日 ベネディクト:子供の名前(男の子)

7月11日
  聖ベネディクト(St. Benedict)

ベネディクトは、イタリアのヌルシアに生まれ、ローマで勉学をしたが、20歳のころ、スビアコに身を退けた。そこで隠修士ロマヌスに出会い、修道士となって、洞くつで厳しい禁欲生活を送った。ベネディクトの名声は高まり、彼に倣おうと多くの青年が集まったので、近くに12の修道院を建てた。529年、彼は数名の修道士を伴い、モンテ・カッシーノに修道院を建てた。それは教会で最も有名な修道院となった。また彼は、修道士のために修道生活の規則「ベネディクト会則」を書いた。祈り、生き方などについて分かりやすく述べられており、しかも人の心に響くものであった。ベネディクト会則は、修道生活の制度の基礎を築き、西方修道院制の歴史で重要な役割を果たすものとなった。

投稿者 nazuke : 11:29 | コメント (0)

7月10日 ゴルクム:子供の名前(地名)

7月10日
  ゴルクムの聖殉教者

当時、オランダでは宗教改革のさ中に、多くのカトリック信者が弾圧を受け、殺された。このとき、ゴルクム市では、4人の司祭、修道士を含む19名が捕えられ、ひどい拷問ののちに処刑された。彼らの遺体はのちにブリュッセルに移され、彼らは「ゴルクムの聖殉教者」と呼ばれ、人々から崇敬されるようになった。

投稿者 nazuke : 11:27 | コメント (0)

7月09日 ヴェロニカ:子供の名前(女の子)

7月9日
  聖ヴェロニカ・ジュリアーニ修道女(St.Veronica Giuliani)

ヴェロニカは、イタリアのメルカテロの裕福な家庭に生まれた。幼いときから修道院に入ることを望み、17歳のときクララ会に入り、ヴェロニカという名前をもらい、祈りと黙想の生活に励んだ。1697年の聖金曜日に、彼女がイエスの苦しみを黙想しているときに、キリストと同じ傷跡を両手、脇腹、両足に受けた。そのため、人々の好奇心や疑惑の的になり、司教からも人前に出ることを禁じられた。しかし、彼女の冷静で明朗な生活は、疑惑を晴らし、真正さを認めさせることとなった。その後、修道院長に選ばれ、生涯をささげた。彼女が書いた日記は44巻にもなり、貴重な神秘思想の文献とされている。

投稿者 nazuke : 11:21 | コメント (0)

7月08日 プロコピオス:子供の名前(男の子)

7月8日
  聖プロコピオス

 プロコピオスは、エルサレムに生まれた彼は、シリア語が堪能で、聖書に精通していたので、教会での様々な奉仕を行った。自らは、厳しい生活を送り、水とパンだけで暮らしていたといわれる。人柄は、謙遜で誠実であり、人々から尊敬を受けた。皇帝ディオクレチアヌスの迫害時代、カイザリアに宣教に行き、そこで捕えられた。皇帝から、神々にいけにえをささげるように命じられたが、彼は「何人もの主人に仕えるのはよくない。一人の主、一人の王あるのみ」といって信仰を貫きとおし、処刑された。この出来事は、パレスチナ地方での迫害の最初の年で、プロコピオスは当地最初の殉教者であったと伝えられる。

投稿者 nazuke : 11:26 | コメント (0)

7月07日 キュリロス:子供の名前(男の子)

7月7日
  聖キュリロス/聖メトディオス

両聖人は兄弟であり、東ローマ帝国の官吏の息子としてギリシャのテサロニケ(現サロニカ)に生まれた。当時、ここは東ローマ帝国の重要な貿易港として栄えていた。2人はスラブ人の文化に触れ、それを身につけ、のちに首都コンスタンチノープルにも遊学した。キュリロスは哲学、神学に優れ、宮廷付司祭となった。メトディオスは、官職についたが、のちに修道院に入った。
 862年、東ローマ皇帝ミカエル3世は、モラヴィアの国王の要請に応じて、兄弟を宣教師としてモラヴィアに派遣した。2人は流暢なスラブ語で説教をし、文字も書物もなかったこの地にスラブ語の文字を新たに作り、聖書をスラブ語に翻訳するなど、宣教活動によって改革していった。こうしてスラブ族の大半は、キリスト教徒になった。2人はローマに招かれ、教皇から祝福を受けたが、キュリロスはとつぜん大病にかかり、42歳で亡くなった。その後、メトディオスはモラヴィアに戻り、宣教活動を続けるが、東フランクの聖職者の反感を買い、投獄された。しかし教皇の尽力によって873年に釈放され、その後も、スラブ教会のために聖書の翻訳や、聖職者の養成に力を注いだ。兄弟は「スラブ族の使徒」と呼ばれている。

投稿者 nazuke : 11:18 | コメント (0)

7月06日 マリア:子供の名前(女の子)

7月6日
  聖マリア・ゴレッティおとめ殉教者(St. Maria Goretti)

マリア・ゴレッティは、イタリアのアンコーナの信仰深い農夫の娘として生まれた。10歳のときに父を失ったので、母が畑仕事に出かける一方、マリアは家事仕事や兄弟たちの世話をして手伝った。隣家の息子アレッサンドロは、マリアによからぬ思いを抱き、彼女の母の留守をねらってはマリアを誘惑したが、彼女は抵抗し続けた。しかし、彼女が12歳のときに、アレッサンドロは短剣をもってマリアをおどした。マリアは「それは罪です」と言って抵抗したので、ついに彼女を刺してしまった。翌日彼女は、「彼を赦してやってくださいね。いつか、天国でまた会いたいわ」と言い残して息をひきとった。アレッサンドロは逃亡していたが、まもなく捕えられた。29年後に監獄から出所し、彼女の母に赦しを願いに行った。母は、娘の言葉どおり彼を迎えいれ、赦し、ともにマリアのために教会でミサをささげたのであった。その後、彼はカプチン会の修道院に入り、庭師としてその生涯を罪の償いのためにささげた。
 マリア・ゴレッティは、キリスト教的生活(貞潔)の殉教者として尊ばれている。

投稿者 nazuke : 11:15 | コメント (0)

7月05日 アントニオ:子供の名前(男の子)

7月5日
  聖アントニオ・マリア・ザカリア司祭(St. Anthony Zaccaria)

アントニオは、イタリアのクレモナで生まれた。パドアの大学で医学を学び、医師となった彼は、肉体的な病ばかりでなく、司祭となって精神的に苦しむ人々をも導き助けたいと思った。司祭になってからのアントニオは人々の救いのために働き、1530年、同じ志をもった数人の司祭とともに、使徒パウロを模範とする修道会「聖パウロの律修聖職者会」を創立した。この会は、活動の拠点となった聖バルナバ教会にちなんで「バルナバ修道会」と呼ばれ、人々の魂の救済に力を尽くした。
   神の命令は難しく、骨が折れるように見えるが、愛があれば容易になる。
   道はけわしく、進んで行く気力がないときでも、勇気をふるって進むとき、
   栄光に達することができる     (聖アントニオ)

投稿者 nazuke : 11:14 | コメント (0)

7月04日 エリザベト:子供の名前(女の子)

7月4日
  聖エリザベト(ポルトガル)皇后(St. Elizabeth of Portugal)

エリザベトは、スペインのアラゴニア王ペトロ3世の娘として生まれ、12歳のときに、ポルトガル王デニスと結婚した。皇后となったエリザベトは、法律の制定や孤児の救済に力を尽くした。国王の女性問題から宮廷を追放されたが、王が病気になって死にゆくときには、今までの仕打ちを赦し、自ら王の看病に当たった。王が死去したのち、彼女はフランシスコ第三会に入った。コインブラに修道院を創立して、そのそばの小屋で祈りと黙想に専念し、修道女たちの世話をしながら生涯をささげた。

投稿者 nazuke : 11:12 | コメント (0)

7月03日 トマ:子供の名前(男の子)

7月3日
   聖トマ使徒(St. Thomas the Apostle)

イエスの弟子であるトマは、「ディディモ」(双子の意)とも呼ばれている。トマは、イエスが復活して現われたと聞いたとき、イエスの傷痕に自分で指を入れてみるまでは決して信じないと言った。そのため、「疑い深いトマ」として知られている。しかし、イエスが再び使徒たちに現われて彼もそこに居合わせたとき、「わたしの主よ、わたしの神よ」と自らの疑い深さに気づき、イエスからも「見ないで信じる者は幸いである」と諭された。
 その後、トマはインドに宣教に行き、マイラポールで殉教したと伝えられている。インドの信者たちは自分たちを「聖トマのキリスト信者」と呼ぶことが多いそうである。

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7月02日 クリストフォロ:子供の名前(男の子)

7月2日
   聖クリストフォロ

クリストフォロは、レプローブスという名であったといわれる。カナンの上流家庭に生まれ、ローマ皇帝デキウスの迫害のときに殉教したと伝えられている。大男で、とても力持ちであった彼は、世界で一番強い王に仕えることを望み、その王に出会えることを待ちながら、旅人を背負って川を渡る仕事をしていた。そしてある暴風雨の夜、子どもの姿をしたキリストを肩に乗せて川を渡り、真の王とは誰かを悟ったのだった。このときから、クリストフォロス(ギリシャ語で「キリストを背負う者」という意味)の名を自分に付けた。
 12世紀ごろから、ドイツを中心に彼の伝説が広まり、クリストフォロが描かれた画を見た者は安全に暮らせる、とまでいわれた。彼は、旅行者や航海者、現代では自動車の運転者の保護の聖人として知られている。

投稿者 nazuke : 11:09 | コメント (0)

7月01日 シメオン:子供の名前(男の子)

7月1日
  聖シメオン・サルス

 シメオンは、パレスチナのシナイの砂漠で苦業の生活を29年間送ったが、故郷のホムスに帰り、社会から見捨てられて差別を受けている人々とともに生活をした。彼のモットーは、「真に謙遜になりたければ、屈辱を愛さなければならない」ということであった。それで彼は、わざと人々から罵られるような振る舞いをし、「サールス(狂気)」とあだ名をつけられた。ある人々は、彼を偽善者と言い、他の人々は予言者と信じていた。しかし、時とともに彼の真意が理解され、彼を聖なる人として認めるようになった。

投稿者 nazuke : 11:05 | コメント (0)