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11月01日 ~ 11月30日

11月30日 アンデレ:子供の名前(男の子)

11月30日
  聖アンデレ使徒(St. Andrew)

 アンデレは、ガリラヤのベツサイダの漁師であった。初め洗礼者ヨハネの弟子であった彼は、イエスが通りかかったとき、ヨハネが「見よ、神の子羊を」(ヨハネ1.36)と言ったのを聞き、その晩はイエスと過ごした。翌日、兄弟シモン・ペトロ(聖ペトロ)をイエスのところに連れていった。その後、ペトロと網を打っていると、イエスに呼びかけられ、2人は従った(参照 マタイ4.18-20、マルコ1.16-18)。
 イエスは、その後12人の弟子を選び、アンデレもその中に入った。聖書の中でアンデレが登場するのは、イエスが行なったパンを増やす奇跡の場面(ヨハネ6.8-10)などで、地味ではあるが、思慮深い性格が現われている。
 伝承によれば、イエスの昇天後ギリシャのパトモスで宣教し、そこでX型の十字架にかけられて殉教したといわれている。
 彼は漁師の保護者、またスコットランドの保護者とされている。特に東方教会では、特別な保護者として敬われている。

投稿者 nazuke : 16:28 | コメント (0)

11月29日 セルニン:子供の名前(男の子)

11月29日
  聖セルニン殉教者(トゥールーズ)

セルニンは、ローマで生まれ、245年ころ教皇ファビアノからスペインのパンプローナに派遣された。彼は、そこからフランスのアルスに渡り、司教のもとで宣教に従事した。
 その後トゥールーズの司教に任命され、説教によって多くの人々を信仰に立ち返らせた。しかし、トゥールーズのキリスト教でない神殿の祭司たちは、人々がセルニンの建てた教会にお金を寄付することで、彼に反感を持つようになった。そして、ついにセルニンは、祭司たちに殺された。
 今日、トゥールーズの聖セルニン教会は、フランスで最も大きいロマネスク建築の教会である。セルニンの遺骨は、1746年に作られた墓のブロンズの雄牛の上に安置されている。

投稿者 nazuke : 16:26 | コメント (0)

11月28日 カタリナ:子供の名前(女の子)

11月28日
  聖カタリナ・ラブレ(St.Catherine Laboure)

 カタリナは、フランス、ブルゴーニュの裕福な農家に17人兄弟の9番目の子として生まれた。9歳のときに母と死別し、その後は彼女が家事を手伝った。父の反対があったが、1830年に愛徳姉妹会に入り、パリの修道院に派遣され、そこで祈りと修業に励んだ。ある晩祈っていると聖母マリアが現われ、彼女の使命について語った。2度目のマリア出現の際に、カタリナは「不思議なメダイ」(聖母マリアが刻まれたメダル)を作り、その信心を広めるようにと言われた。彼女の体験した2つの示幻は、2年後の1836年に、パリ大司教区の調査委員会によって認められた。メダイは、パリの大司教の奨励で製造されるようになり、メダイの普及に伴って病気の全快や回心など多くの奇跡が世界の至るところで起こったといわれる。
 彼女の遺体は、パリのバック街の修道会本部に安置されている。現在もその不思議なメダイは、多くの人々から大切にされ、親しまれている。

投稿者 nazuke : 16:23 | コメント (0)

11月27日 ヤコボ:子供の名前(男の子)

11月27日
  聖ヤコボ・インテルチーズス

 ヤコボは、ペルシャに生まれ、信仰深く育てられた。ペルシャ国王エディゲルド1世に仕えていたが、420年ころから王がキリスト教を迫害し始めると、王の信頼を失うことを恐れて棄教した。王の死後、ヤコボの両親は、信仰を捨てたことで彼を責め、彼との関係を断つという手紙を送った。ヤコボは、大きな衝撃を受け、宮廷を去って、回心することを誓った。それを聞いた次の王バーラムは、ヤコボが棄教しないなら彼を処刑せよと臣下に命じた。
 しかしヤコボは、決して信仰を捨てようとせず、「この苦しい死も、永遠の生命を得るためならば比べることなどできない」と言った。そのため、刑を執行する者たちは、王の命令通りに彼の体を切り始めた。多くの信者たちから見守られ、ヤコボは苦痛に耐え祈りながら、殉教した。「インテルチーズス」といわれるのは、「細かく切り刻む」という意味からである。

投稿者 nazuke : 16:20 | コメント (0)

11月26日 レオナルド:子供の名前(男の子)

11月26日
  聖レオナルド(ポルト・マウリチオ)(St.Leonard of Port Maurice)

レオナルドは、イタリアの港町、ポルト・マウリチオの船乗りの家に生まれた。信仰深く育てられ、12歳でローマに遊学し、その後ローマ大学の医学部に進んだが、次第に修道生活への望みを抱くようになった。1697年、フランシスコ会に入り、1702年に司祭となったが、重病にかかり、回復は無理と思われていた。しかし奇跡的に回復し、以後44年間は、イタリア各地やコルシカ島を回ってたゆむことなく説教した。彼を動かしていた信念は、「キリストは私のために死なれた」ということであり、その黙想指導は、聖母への信心のため、ロザリオの祈りに始まり、十字架の道行(キリストの受難を黙想する祈り)を行なうことで閉じられた。彼は、多くの人々を信仰に立ち返らせた。教皇ベネディクト14世に招かれ、ローマの諸教会で黙想を指導したときにはいつも超満員となり、屋外で説教をするほどだったといわれている。十字架の道行の信心を全教会に広めたのは彼の貢献によるものである。多数の説教・書簡集が刊行されている。
 最後まで宣教に身をささげ、休養するように勧める人々に対して、「ひとつのミサは地上の宝より値打ちがある」といってミサをささげ、息を引き取ったといわれる。当代随一の宣教者と評された。

投稿者 nazuke : 16:18 | コメント (0)

11月26日 レオナルド:子供の名前(男の子)

11月26日
  聖レオナルド(ポルト・マウリチオ)(St.Leonard of Port Maurice)

レオナルドは、イタリアの港町、ポルト・マウリチオの船乗りの家に生まれた。信仰深く育てられ、12歳でローマに遊学し、その後ローマ大学の医学部に進んだが、次第に修道生活への望みを抱くようになった。1697年、フランシスコ会に入り、1702年に司祭となったが、重病にかかり、回復は無理と思われていた。しかし奇跡的に回復し、以後44年間は、イタリア各地やコルシカ島を回ってたゆむことなく説教した。彼を動かしていた信念は、「キリストは私のために死なれた」ということであり、その黙想指導は、聖母への信心のため、ロザリオの祈りに始まり、十字架の道行(キリストの受難を黙想する祈り)を行なうことで閉じられた。彼は、多くの人々を信仰に立ち返らせた。教皇ベネディクト14世に招かれ、ローマの諸教会で黙想を指導したときにはいつも超満員となり、屋外で説教をするほどだったといわれている。十字架の道行の信心を全教会に広めたのは彼の貢献によるものである。多数の説教・書簡集が刊行されている。
 最後まで宣教に身をささげ、休養するように勧める人々に対して、「ひとつのミサは地上の宝より値打ちがある」といってミサをささげ、息を引き取ったといわれる。当代随一の宣教者と評された。

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11月26日 レオナルド:子供の名前(男の子)

11月26日
  聖レオナルド(ポルト・マウリチオ)(St.Leonard of Port Maurice)

レオナルドは、イタリアの港町、ポルト・マウリチオの船乗りの家に生まれた。信仰深く育てられ、12歳でローマに遊学し、その後ローマ大学の医学部に進んだが、次第に修道生活への望みを抱くようになった。1697年、フランシスコ会に入り、1702年に司祭となったが、重病にかかり、回復は無理と思われていた。しかし奇跡的に回復し、以後44年間は、イタリア各地やコルシカ島を回ってたゆむことなく説教した。彼を動かしていた信念は、「キリストは私のために死なれた」ということであり、その黙想指導は、聖母への信心のため、ロザリオの祈りに始まり、十字架の道行(キリストの受難を黙想する祈り)を行なうことで閉じられた。彼は、多くの人々を信仰に立ち返らせた。教皇ベネディクト14世に招かれ、ローマの諸教会で黙想を指導したときにはいつも超満員となり、屋外で説教をするほどだったといわれている。十字架の道行の信心を全教会に広めたのは彼の貢献によるものである。多数の説教・書簡集が刊行されている。
 最後まで宣教に身をささげ、休養するように勧める人々に対して、「ひとつのミサは地上の宝より値打ちがある」といってミサをささげ、息を引き取ったといわれる。当代随一の宣教者と評された。

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11月26日 レオナルド:子供の名前(男の子)

11月26日
  聖レオナルド(ポルト・マウリチオ)(St.Leonard of Port Maurice)

レオナルドは、イタリアの港町、ポルト・マウリチオの船乗りの家に生まれた。信仰深く育てられ、12歳でローマに遊学し、その後ローマ大学の医学部に進んだが、次第に修道生活への望みを抱くようになった。1697年、フランシスコ会に入り、1702年に司祭となったが、重病にかかり、回復は無理と思われていた。しかし奇跡的に回復し、以後44年間は、イタリア各地やコルシカ島を回ってたゆむことなく説教した。彼を動かしていた信念は、「キリストは私のために死なれた」ということであり、その黙想指導は、聖母への信心のため、ロザリオの祈りに始まり、十字架の道行(キリストの受難を黙想する祈り)を行なうことで閉じられた。彼は、多くの人々を信仰に立ち返らせた。教皇ベネディクト14世に招かれ、ローマの諸教会で黙想を指導したときにはいつも超満員となり、屋外で説教をするほどだったといわれている。十字架の道行の信心を全教会に広めたのは彼の貢献によるものである。多数の説教・書簡集が刊行されている。
 最後まで宣教に身をささげ、休養するように勧める人々に対して、「ひとつのミサは地上の宝より値打ちがある」といってミサをささげ、息を引き取ったといわれる。当代随一の宣教者と評された。

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11月26日 レオナルド:子供の名前(男の子)

11月26日
  聖レオナルド(ポルト・マウリチオ)(St.Leonard of Port Maurice)

レオナルドは、イタリアの港町、ポルト・マウリチオの船乗りの家に生まれた。信仰深く育てられ、12歳でローマに遊学し、その後ローマ大学の医学部に進んだが、次第に修道生活への望みを抱くようになった。1697年、フランシスコ会に入り、1702年に司祭となったが、重病にかかり、回復は無理と思われていた。しかし奇跡的に回復し、以後44年間は、イタリア各地やコルシカ島を回ってたゆむことなく説教した。彼を動かしていた信念は、「キリストは私のために死なれた」ということであり、その黙想指導は、聖母への信心のため、ロザリオの祈りに始まり、十字架の道行(キリストの受難を黙想する祈り)を行なうことで閉じられた。彼は、多くの人々を信仰に立ち返らせた。教皇ベネディクト14世に招かれ、ローマの諸教会で黙想を指導したときにはいつも超満員となり、屋外で説教をするほどだったといわれている。十字架の道行の信心を全教会に広めたのは彼の貢献によるものである。多数の説教・書簡集が刊行されている。
 最後まで宣教に身をささげ、休養するように勧める人々に対して、「ひとつのミサは地上の宝より値打ちがある」といってミサをささげ、息を引き取ったといわれる。当代随一の宣教者と評された。

投稿者 nazuke : 16:18 | コメント (0)

11月25日 カタリナ:子供の名前(女の子)

11月25日
  聖カタリナ(アレキサンドリア)おとめ殉教者

カタリナは、エジプトのアレキサンドリアの貴族の家に生まれ、早くから学問を修め、才能に恵まれていた。あるとき彼女は、ひとりの隠修士からキリストの教えを聞き、洗礼を受けた。18歳のとき、ローマ皇帝マキシミヌスは、市民たちに偶像崇拝を命じ、従わない者は処罰することを公布した。カタリナは、公に信仰を表わしたので、皇帝は50人の学者を集め、彼女を屈服させようとした。しかし、学者たちは彼女に感化されて、キリスト教こそ真の宗教であると公言し、改宗した。憤慨した皇帝は、学者全員を処刑したが、カタリナに対しては、その学識の豊かさと美しさに心をひかれていたので、彼女が信仰を捨てれば、皇后にするとまで言った。しかし、彼女が拒否したので、皇帝は怒り、彼女を車輪に縛りつけて身を引き裂くという刑を執行するよう命じた。それでも彼女が命を落とさなかったため、最後は、斬首された。
 彼女の遺体は、天使によってシナイ山に運ばれたと伝えられている。
 カタリナを敬う習慣は、8世紀ごろに東方教会から西方教会に伝わり、10世紀にはイタリアを中心に広まった。釘を打った車輪と、イエス・キリストとの婚約指輪、剣などを持った姿で描かれている。
 若い女性、学者、弁護士などの守護の聖人とされている。

投稿者 nazuke : 16:14 | コメント (0)

11月24日 クリュソゴノス:子供の名前(男の子)

11月24日
  聖クリュソゴノス(St.Chrysogonus)

 クリュソゴノスは、ローマの役人であったが、キリスト教徒になり、多くの人々を信仰に導いた。特にアナスタシア(殉教し聖人となる)を信仰に導いた。クリュソゴノスは彼女の信仰の師として、キリスト教徒でない人と結婚したキリスト者の生き方を論じたと伝えられている。
 当時は、ローマ皇帝ディオクレチアヌスによるキリスト教迫害下にあり、クリュソゴノスも捕えられ、何か月も拷問を受けたのちに斬首された。彼の遺体は、海に投げられ、ゾイルスという司祭に発見されたといわれる。
 4世紀の初めに、教皇シルベストロ1世によってクリュソゴノスの墓の上に教会が建てられ、人々から敬われた。この教会の祭壇の上には、彼の頭と腕が安置され、17世紀になって、天井に画家ジョヴァンニ・グエンチーノによる「聖クリュソゴノスの勝利」という絵が描かれた。

投稿者 nazuke : 16:11 | コメント (0)

11月23日 クレメンス::子供の名前(男の子)

11月23日
  聖クレメンス1世教皇殉教者(St.Clement I)

クレメンスは、元老院の父と貴族出身の母のもとローマで生まれた。聖ペトロや聖パウロからキリスト教の教えを聞き、使徒たちを助けて宣教したといわれる。
 彼は、92年、キリストの代理者として第3代のローマ司教(第4代教皇)になった。歴史的に見てこの時代は、後世の教会の伝統に重要な意味を与えている。当時、聖ヨハネを除いては、キリストの12弟子は殉教で亡くなっていた。クレメンスを含め、この時代の初期の人たちは、キリストの12使徒の弟子として、教えを受けていた。
 クレメンスは、各教会に書簡を送り、信者を励まし、ときにはよくない習慣を戒めたりして、信者から多大なる尊敬を受けていた。特に、問題が多かったコリント教会への書簡は、「クレメンスの第1の手紙」として残っており、当時の教会を知る第一の資料となっている。その中で、彼は信者たちに、互いに愛しあい、尊敬しあって、教会の長上を尊敬するように勧めている。
 「イエスに従うすべての人々の目的は平和である」(聖クレメンス)
 クレメンスについては、多くの伝説が残っており、それによると、彼はローマ皇帝トラヤヌスの迫害時にクリミア半島に追放され、奴隷として働き、その状況下でも宣教を熱心にしていたため、死刑に処せられたといわれている。

投稿者 nazuke : 16:08 | コメント (0)

11月22日 セシリア:子供の名前(女の子)

11月22日
   聖セシリアおとめ殉教者(St. Cecilia)

 セシリアは、ローマの裕福な貴族の家に生まれた。父の意志により、信者でない青年バレリアノと結婚したが、彼女は、神のために生涯貞潔を守ることを彼に話した。彼女の熱心な信仰態度に心を打たれたバレリアノは、弟ティブルツィオとももに洗礼を受けた。そして彼らは迫害されて殉教した人々の遺体を引き取り、手厚く葬った。このことがローマ総督の耳に入り、バレリアノと弟は捕えられ、信仰を捨てるように命じられたが拒んだため、2人は斬首の刑を受けた。
 セシリアは、彼らの遺体を引き取り埋葬した。その後、自分の家をカタコンブ(地下墓地)にしたり、聖堂(のちに聖セシリア教会と呼ばれる)にしたことが総督に知られ、捕えられ、棄教するように強要された。彼女がむし風呂の刑にあっても、苦痛もなく、汗ひとつかかなかったので、最後は首を切りつけられて、3日間の苦しみののち殉教した。
 信者たちはセシリアの遺体をカタコンブに葬った。1599年に、腐敗していない彼女の遺体が発見されたといわれている。その姿をもとに、彼女の墓の上には、当時の有名な彫刻家によって造られた像が置かれている。
 彼女は、「心のうちで神に音楽を奏でていた」といわれる伝承があることから、音楽家の保護の聖人として人々から親しまれている。

投稿者 nazuke : 16:06 | コメント (0)

11月21日 聖マリアの奉献:子供の名前

11月21日
  聖マリアの奉献(Feast of the Presentation of Mary)

古い伝承によれば、聖母マリアは、幼いころ両親(聖アンナと聖ヨアキム)によって、エルサレムの神殿に仕えるためにささげられたといわれている。聖書には、神殿に住み、断食や祈りそして神を礼拝する女性の集団があったと記されている(参照 1サムエル2.22, 出エジプト38.8)。
 この日は、マリアが生涯自分を神にささげたということを記念する日である。彼女の奉献は、「わたしは、主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(ルカ1.38)という言葉に表現されている。彼女の神への全き信頼は、その生涯を貫くものだった。
 この祝日は、エルサレム神殿の近くにある「聖マリア・ノーヴァ」と呼ばれる聖堂の献堂式を、543年11月21日に行ったことが始まりである。西方教会では「マリアの奉献」というが、東方教会では、「神の聖なる母の神殿入り」の記念と呼んでいる。

投稿者 nazuke : 16:04 | コメント (0)

11月20日 フェリクス:子供の名前(男の子)

11月20日
  聖フェリクス(ヴァロア)

 フェリクスは、フランスのヴァロアの貴族の家に生まれた。敬虔な両親のもとで信仰深く育てられ、聖ベルナルドのクレルヴォの修道院で教育を受けた。その後、フランスの宮廷で仕え、皇帝とともに十字軍に参加し、聖地エルサレムの奪回に奮闘した。帰国後は宮廷を退き、司祭となり、荒野で隠遁生活を始めた。
 20年たったのち、荒野でパリ大学教授ヨハネ・デ・マタと出会い、ともに祈りと修行に励んだ。そして自分たちの使命が奴隷解放のために働くことであると悟り、時の教皇の認可を受け、「三位一体会」を創立した。1198年に、フランスのセルフロアに修道院を建て、ヨハネはアフリカに渡って奴隷解放のために働き、一方フェリクスは、各地に修道院を建て同志を集め、彼らを養成した。
 三位一体会は、奴隷解放のほかに、十字軍の従軍看護、捕虜解放、療養所の設立などに貢献した。

投稿者 nazuke : 16:01 | コメント (0)

11月19日 ポンチアノ:子供の名前(男の子)

11月19日
  聖ポンチアノ教皇

 ポンチアノは、教皇ウルバヌス1世の後を次いでローマ司教(教皇)になった。当時は、神学者オリゲネスが書いた種々の著作が論議を巻き起こしていたので、教皇もその一部に反対せざるを得なかった。またオリゲネスに傾倒していた聖ヒッポリト(8.13参照)と教えについての論争が続いており、教皇座が分裂していた。
 在位してから5年後、ローマ皇帝マクシミヌス1世によるキリスト教迫害が起こり、ポンチアノはヒッポリトとともにサルデェニヤに流された。そこで、2人は和解し親しい友人となり、教皇座の分裂が終わった。ポンチアノは、強制労働をさせられた後、ヒッポリトとともに殉教した。2人の遺体は、教皇ファビアーヌスによってローマに戻され、埋葬された。

投稿者 nazuke : 15:59 | コメント (0)

11月18日 聖ペトロ教会と聖パウロ教会の献堂

11月18日
   聖ペトロ教会と聖パウロ教会の献堂(Dedication of St. Peter and )

ペトロは、キリストの12人弟子の一人で、初代教会の発展に尽くし、初代教皇となった。パウロも、キリストの偉大な使徒であり、異邦人への宣教に生涯をささげた聖人である。バチカンのペトロの墓とオスチア街道テベレ河畔のパウロの墓は、2世紀の文献によれば「使徒たちの戦勝記念碑」といわれ、信徒たちから敬われ、有名な巡礼地となっている。
 330年ごろローマ皇帝コンスタンチヌスは、ペトロの墓の上に荘厳な大聖堂を建てた。この聖堂は、16世紀にブラマンテとミケランジェロによって改築され、1626年11月28日に献堂式が行われた。またパウロの墓の上に建てられた小聖堂は、390年ごろ壮麗なものに建て直されたが、1823年の火災で消失し、1854年に再建された。


投稿者 nazuke : 15:56 | コメント (0)

11月17日 エリザベト:子供の名前(女の子)

11月17日
  聖エリザベト(ハンガリー)修道女(St. Elizabeth of Hungary)

エリザベトは、ハンガリー王女として生まれた。4歳のときに、ドイツのテューリンゲンのヘルマン伯の子息ルートヴィヒと婚約し、将来皇后としての必要な教育を身につけるため、ヘルマン伯の城で教育された。
 エリザベトは、幼いときから敬虔であり、宮廷内の批判を受けることもあったが、ヘルマン伯とルートヴィヒによって大切に保護された。
 1221年に結婚し、1男2女をもうけ、子どもたちをよく教育した。そしていっそう祈りと節制に励む一方、貧しい人や病人を見舞った。しかし、1227年、夫が十字軍の遠征中に病死するという不幸な出来事が起こると、夫の兄弟たちは、後継者として立とうとして、エリザベトと子どもたちを城外に追放した。彼女たちは、アイゼナハに逃れたが、町の人々からは受け入れられず、苦しい立場に置かれた。しかし、幸いなことに、教皇のとりなしによって、子どもが後継者として認められた。彼女自身は、宮廷から退き、聖フランシスコの第三会に入り、持っている財産で病院を建て、そこで貧しい人々の看護にあたった。それから4年後に、24年の生涯を閉じた。
 エリザベトは、ドイツの人々から親しまれている聖人のひとりであり、ドイツにはその名を取った病院や施設が多い。

投稿者 nazuke : 14:30 | コメント (0)

11月16日 マルガリタ:子供の名前(女の子)

11月16日
  聖マルガリタ(スコットランド)(St. Margaret of Scotland)

イングランド王エドワード・アイアンサイドの孫娘であるマルガリタは、若いころ伯父のエドワード(証聖王)の宮廷で育った。しかし1067年、ノルマン人の侵入によりアングロサクソン王国が打倒されたために、母と妹とともにスコットランドに渡り、国王マルコム3世の宮廷に逃れた。マルガリタは、1070年に国王と結婚して王子6人、王女2人をもうけ、熱心に子どもの教育をした。その子ダヴィド1世は賢王の一人とされている。彼女は王妃として宮廷の悪い習慣を改善し、教会の改革や貧しい人・病人への救済に献身した。その影響で国王もキリスト信者となり、慈善事業や病院の設立などに多くの援助をし、対外的にも隣国と平和を保った。
 またマルガリタは、イングランドの修道士を呼び、ベネディクト会修道院を創立させ、エディンバラ宮殿に美しい教会を建てさせた。

投稿者 nazuke : 14:28 | コメント (0)

11月15日 アルベルト:子供の名前(男の子)

11月15日
  聖アルベルト司教教会博士(St. Albert the Great)

 アルベルトは、南ドイツの、シュワーベンの貴族の家に生まれ、信仰深く育てられた。北イタリアのパドア大学で、医学、自然科学などを学んだ。新しくできたばかりのドミニコ会を知り、その精神に共鳴して、1223年にドミニコ会に入った。司祭となった。アルベルトは修道院で哲学、神学などを教え、その間に当時の学問をすべて習得して「全科博士」と呼ばれた。
 1245年からは、パリ大学で哲学・神学を講義し、その深い知識は多くの学生を惹きつけた。学生の中に中世最大の神学者聖トマス・アクィナスもいた。その後、ドミニコ会の研究機関設立のため、トマスとともにケルンに赴き、研究生活を送った。ドイツの管区長、レーゲンブルクの司教を経てボヘミアの十字軍説教者となった。
 アルベルトは、アリストテレスの思想をドミニコ会に導入し、西方教会全体に浸透させようと努力し、多くの著作を残した。彼は、信仰と理性との間に明らかな区別をした最初の神学者であり、単なる理性だけでは、だれもイエスの託身・復活は理解しえないと主張した。
 科学者の保護の聖人といわれている。

投稿者 nazuke : 14:26 | コメント (0)

11月14日 ピニャテリ:子供の名前(男の子)

11月14日
  聖ヨセフ・ピニャテリ

 ピニャテリは、スペイン、サラゴサの貴族の家に生まれ、幼いころに両親を亡くし、姉のもとで育てられた。15歳でイエズス会に入り、1762年に司祭となって幼児教育や、慈善事業に携わった。特に、死刑を宣告された人々を慰め、回心に導くなど「犯罪人の父」と呼ばれた。
 当時、ヨーロッパでは啓蒙主義が盛んであった。それに基づいて社会を改革しようとした国王カルロス3世は、カトリック教会を破壊することを企て、今まで教育などを指導してきたイエズス会を国外追放処分にした。ピニャテリは同僚とともに船に乗り、飢餓、病気などの苦しみに遭いながら、なんとか教皇の領土に着いた。そこでも苦しい生活を強いられたが、ピニャテリは、皆を励まし会員をまとめる人物となっていった。彼は、その間イエズス会の歴史を研究し、収集した文献は3000点にも及んだ。
 しかし、6年後教皇はブルボン王家の権力に屈し、やむなくイエズス会に解散を命じた。その日から25年間ピニャテリは、イエズス会会員を物質的にも精神的にも支え保護した。その後、教皇の許可がおりてイタリアの地にイエズス会が復興すると、彼はイタリアの管区長を勤めた。ナポレオン時代になると、ピニャテリは、ナポリに移ったが、教皇が追放されるとともに彼も同地を追われ、ローマで亡くなった。彼は、イエズス会の復興の父として尊敬されている。

投稿者 nazuke : 14:23 | コメント (0)

11月13日 スタニスラス:子供の名前(男の子)

11月13日
  聖スタニスラス・コストカ(St.Stanislaus Kostka)

 スタニスラスは、ポーランドのロストコフ城の領主の息子として生まれ、信仰深く育てられた。1564年、兄と共にウィーンのイエズス会の寄宿学校に入った。しかし、皇帝によってこの寄宿学校が閉鎖されたため、カトリックでない家に兄と下宿した。兄は信仰生活から離れ、弟スタニスラスの敬虔な態度を嫌い、虐待するようになった。スタニスラスは、心身の疲れで、重病にかかり、聖体(イエス・キリストの体)を受けたいと望んだが、家主が司祭を家に入れることを許さなかった。しかし彼が祈っていたとき、聖バルバラと天使が現われ、聖体を授けた。奇跡的に病が治ると、イエズス会に入ることを決意したが、父の反対にあい入会を許可されなかった。スタニスラスは、ウィーンを出て、ドイツのイエズス会管区長聖カニシウスのもとに行き、入会を願った。カニシウスは、スタニスラスの決心が固いのを知ると彼をローマに旅立たせ、そこで総長から入会を許可された。
 彼は、ローマでの修練生活を、ひたむきに祈りと学業に励んで送った。9ヶ月たったころ、スタニスラスは自らの死期が迫っているの感じ、「8月15日の聖母被昇天の祝日は、天で祝えるよう心から願っています」と言った。彼の言葉どおりに、8月10日に病いに倒れ、そして15日の早朝、「聖母が、迎えにこられました。」と言って17年の生涯を閉じた。
 彼は、ポーランドの守護聖人とされている。

投稿者 nazuke : 14:20 | コメント (0)

11月12日 ヨサファト:子供の名前(男の子)

11月12日
  聖ヨサファト司教殉教者(St. Josaphat)

 ヨサファトは、ポーランドのウラジミルで生まれた。当時はローマ教会(カトリック)とロシア正教会との合同運動が起こっていて、ヨサファトの父はローマ教会に属していた。ヨサファトは、ヴィルノの商人見習いとして働いたが、彼の興味は商売よりも教会のことに向けられていた。そしてイエズス会の司祭と出会い、修道者になることを決意し、1604年に聖バジリオの修道会に入り司祭となった。彼の説教はすばらしく、人々を感動させ、カトリックと一致するように導いた。
 1617年にポロツクの大司教に選ばれた後も、合同運動に力を注ぎ、この運動に反対する人々から、幾度も命を襲われたが、それにも屈せず熱心に続けた。彼は、いつも「あなたたちの牧者として小羊のために喜んで命をささげます。教会の一致のために……」と言っていた。この言葉のとおり、彼は反対者から暴行を受け、殺された。彼は、教会一致の使徒と呼ばれている。

投稿者 nazuke : 14:18 | コメント (0)

11月11日 マルチノ:子供の名前(男の子)

11月11日
   聖マルチノ(ツール)司教(St. Martin of Tours)

 マルチノは、ローマ軍人の父がサバリア(現在のハンガリー)に駐屯したときに生まれ、イタリアで育った。15歳のときローマ騎兵となり、フランスに派遣された。ある大雪の日に、凍えている貧者に出会い、着ていたマントを二つに裂き与えた。その夜、切れたマントをまとったイエスが夢に現れ「あなたがマントを与えた男こそ、この私である」と言われたという。334年に洗礼を受け、退役の決心をし、ポワチエの司教聖ヒラリオと出会い、彼の指導のもとで修道生活を始めた。360年ごろガリアに行き、リギュジェにヨーロッパ最初の修道院を創設し、多くの弟子とともに祈りと労働と宣教に力を尽くした。
 370年にツールの司教に任命されるが、修道生活を続け、80人ほどの同志とともにマルムティエに住んだ。この修道運動は各地に広がり、マルチノが定めた祈り、労働などの規則は、後年聖ベネディクトの会則の手本とされた。彼は、司教として各地を宣教して巡り、病人を癒し、政治の乱れを正すことなどに力を尽くした。
 当時、教会は殉教者だけを聖人として認めていたが、殉教者ではない聖人として初めて認められたのが、マルチノである。ヨーロッパでは、彼は親しまれているため、人の名前をはじめ教会、学校などにマルティン、マルタン、マルティーノというように、その名をつけたものが多い。フランスの保護の聖人とされている。

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11月10日 レオ:子供の名前(男の子)

11月10日
  聖レオ1世教皇教会博士(Leo the Great)

レオは、イタリア、トスカーナに生まれ、若いころから聖職者として重要な職務につき、教皇に選出された。当時、教会の内外にはいろいろな災難が起きた。その1つにコンスタンチノープルの修道院長エウティケが、431年のエフェソ公会議で異端とされたネストリウス派の「イエスは人間であって、神ではない」という説を排斥するあまりに、「キリストは真の神であって、真の人間ではない」という極端な説をとなえ始めたことがあった。レオ1世は、これらの異説をすべて排斥し、451年のカルケドンの公会議で、信仰宣言を読み「キリストは真の人間であり、真の神である」と述べた。このとき、司教たちは感動し、「これこそ使徒たちの信仰である。ペトロがレオ教皇の口を借りて語った」と言ったと伝えられている。また、民族移動でフン族、ヴァンダル族が侵入してきたときには、それぞれの王と交渉してローマを危機から救うことに努めた。
 レオ1世のとき、聖ペトロの後継者として初めて「教皇」(Papa)という称号が用いられた。そしてローマ司教の他の教会に対する「首位権」を主張し、教皇の地位と権能を確立させた。
 彼は、96の説教集や多くの書簡集を残した。後世、大教皇という称号を与えられ、「大レオ」と呼ばれる。

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11月09日 ラテラン:子供の名前(男の子)

11月9日
  ラテラン教会の献堂

4世紀のはじめ、ローマ皇帝コンスタンティヌスはキリスト教を国教と定め、ラテランに聖堂を建てた。この聖堂が神にささげられたものとして記念されたのがこの日である。
 ラテラン大聖堂は、ローマ司教である教皇の司教座であり、「全世界のすべての聖堂の母および頭」である。最初の名は「救い主大聖堂」と呼ばれたが、13世紀に聖ヨハネの名が加えられ、現在は「ヨハネ大聖堂」として通用している。現在の大聖堂は、14世紀の火災にあって、再建されたが、当時の形もいくらか残っている。
 教会の献堂式を毎年記念する習慣は、古くからの伝統である。そのためカトリックでは、各教区の大聖堂とローマの4つの大聖堂、聖ペトロ大聖堂と聖パウロ大聖堂(11月18日)、聖マリア大聖堂(8月5日)、そしてラテラン大聖堂を祝っている。

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11月08日 ジダコ:子供の名前(男の子)

11月8日
  聖ジダコ

ジダコは、スペイン南部に生まれ、信仰深い両親に育てられた。少年時代に、ある司祭のもとで生活し、フランシスコ会の修道院に入った。ジダコはどんな仕事も快く行い、徹底した清貧と禁欲を実践し、キリストの受難、聖母マリアへの信心を深め、また広めることに務めた。彼は多くの人を癒し、また信仰に導いたといわれる。
 1414年、ジダコは宣教師としてカナリア諸島に派遣され、修道院長を務めたのちに、晩年をスペインの修道院で祈りと黙想のうちに送った。

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11月07日 エンゲルベルド:子供の名前(男の子)

11月7日
  エンゲルベルド1世(ケルン)(Engelbert of Cologne)

 エンゲルベルドは、ドイツのベルクの貴族の家に生まれた。若いころ、皇帝オットー4世に武器を持って対抗したために破門されたが、その後異端に反対する運動を熱心に行って信仰を擁護したので、その罪を赦された。1217年にケルンの大司教に、数年後ドイツの行政官に任ぜられ、ベルクに平和を確立しようと力を尽くした。彼自身、厳しい修道生活を送りその模範を示して、司祭、修道者、信者を導いた。
 あるとき、彼の従兄イーゼンベルクのフリードリヒが、エッセンの女子修道院の土地、財産などを奪おうとした。エンゲルベルドはそれをやめさせようとして、フリードリヒに殺害された。
 彼の遺物は、ケルンとアルテンベルクの大聖堂に安置されている。

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11月06日 レオナルド:子供の名前(男の子)

11月6日
  聖レオナルド(ノブラク)(St.Leonard of Noblac)

レオナルドは、フランスの貴族の家に生まれ、フランク国王のクロヴィスに忠誠を誓って仕えていた。クロヴィス王の命運をかけた戦いのとき、皇后はこの戦いに勝ったらカトリックの信者になると神に誓った。王も、レンスのレミジオ司教から家臣とともに洗礼を受けた。その家臣のなかにレオナルドがいた。レオナルドは、神にすべてをささげることを決心し、レミジオ司教のもとで学び、司祭となった。クロヴィス王は、レオナルドを司教に推薦したが彼は辞退し、その代わりに心を改めた囚人を釈放してほしいと王に願った。その後、彼はオルレアンの修道院に入り、修行に励んだ。
 あるとき、皇后が難産で重態であることを聞いたレオナルドは宮廷に駆けつけ、祈りによって彼女の命を救い、無事に子どもが生まれた。王が感謝の意を表わし、レオナルドに土地を与えたので、彼はそこにノブラクの修道院を創設し、熱心に宣教して人々を導いた。彼の名声は広まり多くの人々が、彼のもとを訪れ、弟子となる者も後をたたず、有名な修道院となった。
 彼に対する尊敬は、12世紀の初めからフランス、イギリス、イタリア、ドイツに広まったといわれる。彼は、囚人、病人、産婦の守護者とされている。

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11月05日 ザカリア、エリザベト:子供の名前

11月5日
  聖ザカリアと聖エリザベト(洗礼者ヨハネの両親)(St.Zachary & Elizabeth)

 新約聖書のルカ福音書では、エリザベトとザカリアは「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった」と書かれている(参照 ルカ1.5-25)。
 彼らには、子どもができず、すでに2人は年をとっていた。そのころ、ザカリアに大天使ガブリエルが現れて、「エリザベトに子どもが産まれる。その子をヨハネと名付けよ」と告げられた。ザカリアは、その言葉を信じなかったため、預言が成就するまで話すことができなくなった。
 ヨハネが誕生すると、親類たちは、割礼を施し、父の名を取ってザカリアという名を付けようとした。ところが、ザカリアが「この子の名はヨハネ」という字を板に書いた。するとたちまち彼は話すことができるようになり神を賛美し始めた。これは、ザカリアの賛歌として知られている(ルカ1.68-79)。
 後の伝承によると、ザカリアはヘロデ王からヨハネの所在を尋ねられたときに、決して言わなかったために殺されたといわれている。

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11月04日 カロロ:子供の名前(男の子)

11月4日
   聖カロロ・ボロメオ司教(St. Charles Borromeo)

カロロは、イタリア、ロンバルディア地方アローナの貴族の家に生まれた。パヴィアの大学で法学を学んだ後、1560年伯父の教皇ピオ4世からローマに招かれ、22歳で枢機卿、その後ミラノ大司教に選ばれた。当時、教会や修道院は風紀が乱れていたので、カロロはその改革にあたり、司祭たちの教育の向上、貧しい人々や病人の救済にも力を尽くした。ペストがミラノに流行したときも、カロロ自ら看護にあたった。また、トリエント公会議中にも、教会の教義統一、特にミサ典書、要理の編纂に貢献した。
 カロロは、何か特別のことをするのではなく、自分の義務を賢明に果たすことによってキリストの道に従った。フランシスコ会、カルメル会の守護の聖人とされている。

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11月03日 フーベルト:子供の名前(男の子)

11月3日
  聖フーベルト司教(St.Hubert of Liege)

フーベルトは、フランス、トゥルーズの貴族の家に生まれた。20歳で王国の司法長官となって活躍したが、彼を快く思わない者の陰謀によって国王に訴えられ、出世の道は断ち切られた。その後フーベルトは、ペピン公爵に仕え、結婚し、子どもにも恵まれたが、685年に妻が亡くなったことを機に、今までの職務から退き、アルデンの森で隠遁生活を始めた。
 ある日、彼は狩猟に出かけ、十字架を持つ鹿の姿を見、そのとき神の声を聞いたことから、より徹底してキリストに従うようになった。そしてフーベルトは、ランベルト司教と出会い、彼に導かれて司祭となり、ともに熱心に宣教した。
 ランベルト司教が暗殺されるという不幸な出来事が起こったとき、フーベルトは、彼の後継者として選出され司教となった。アルデンの森の人々の改宗のために力を注ぎ、近くの町リェージュに大聖堂を建てた。
 彼は、狩猟の守護の聖人とされ、十字架を持つ鹿との出会いのエピソードは、後世の画家が好んで描いたといわれる。リェージュの守護の聖人でもある。

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11月02日 死者の日:子供の名前

11月2日
  死者の日(Feast of All Souls)

11世紀初めに定められた。死者のための祈りは、ミサをささげることと同様に、キリスト教のもっとも古い伝統に属しているといわれる。亡くなった人は、罪が浄化され、償いを果たした後に天国に入る。そのために、この世に生きる私たちは、死者の魂がはやく天国に導かれるようにと、祈りによって支えるのである。


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11月01日 諸聖人の日:子供の名前

11月1日
  諸聖人の日(Feast of All Saints)

4世紀、コンスタンティヌス皇帝によってキリスト教がローマの国教となると、教会は各地の殉教者たちを悼み記念するようになった。609年、教皇ボニファティウス4世はローマのパンテオン(神殿)をキリスト教聖堂に建て直し、カタコンベ(殉教者たちの墓)の多くの遺骨をそこに移し、聖なる殉教者たちを記念した。教皇はこの日11月1日を「諸聖人の日」と定めた。
 「諸聖人」は、天国にいるすべての聖なる人の霊魂をさしており、神のもとで人々のために取りなしており、敬われている。

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